お茶うけに占い

ど素人が占いの世界を覗きみる。

木星と土星

ホロスコープにおける木星土星について考えてみます。

古典的には、木星は「吉(ベネフィック)」、土星は「凶(マレフィック)」などと表現されていた過去があり、その言葉通りに解釈しようとすると、チャートをみるたびに一喜一憂してしまうような天体だと思います。
しかしながら、どんな価値観も十人十色であるように、木星の持つ性質が必ずしも万人に「吉」とは言い難く、同様に土星の持つ性質も万人に「凶」とは言い難いと感じます。

これは占いの中の価値観に限らず、どんな世界で語られる価値観についても同じことが言えると思うのですが、やはり他者の「良し悪しの判断」を鵜呑みにするのはあまり良くないと私は感じています。
重要なのは、その人が「なぜ」良くて「なぜ」悪いと言っているのか、その判断材料を自分なりに解釈しなおして、自分なりに価値判断を行うことだと思うのです。
これこそあくまでも私の価値観なのですが、そのように自分の価値観を自分の人生に反映させることも、人生におけるひとつの喜びだと思います。

今回は、木星土星を比較しつつ、吉凶の呪縛から自分を解き放つ練習をすることにします。

「事象への思い入れ」にみる木星土星

単刀直入に、2天体の象意を対比していきましょう。
一般に一言でいうと、木星は「拡大」、土星は「制限」の天体とされています。

おおもとに立ち返ってみます。人は、何を以て「何かが『拡大』されたり『制限』されたりしている」と判断するのでしょうか?
私はずばり、「ある意味を担う事象」が、世間においてどれくらいの「位置・容積」を占めているのかによって判断しているのだと思っています。

私事で申し訳ないのですが、例をひとつ挙げてみますと、私の場合、親の「逆行の木星」が私のIC(4ハウスカスプ)に厳密な合です。
この部分だけを取り上げると、(逆行という部分に一抹の不安を抱きながらも)一見居心地の良さそうな親子関係に見えるかもしれませんが、チャートのその他の部分との兼ね合いもあり、実際のところは「親の価値観があらゆる物品に反映された家庭環境」という形で出ました。自分にとっては非常に息苦しい家庭環境でした。
シナストリーにおいて「ある意味を担う事象」が「位置を占める」というのは、ときにこういうことにもなるわけです。

この場合、重要なのは、事象に込められた「意味」がどういうものなのかということであって、これは木星のあずかり知るところではありません。木星は、ただ淡々と事象が占める位置を拡大するだけです。その意味が正しかろうが間違っていようが、木星には関係ないのです。恐ろしいですね!

一方、土星は、単に位置の制限というよりも、「事象に込める『意味』を掘り下げる」という要素が強いと感じます。
事象に込める「意味」は、「客観的な厳密さ」であったり、「主観的なこだわり」であったりするかもしれません(中身の意味はサイン(星座)が担うところだと思います)。土星はそういう「思い入れ」について、ひとつの事象に腰を据え、とにかく深く鋭く精度を上げるのです。その焦点化の様子が「制限」にみえるというだけで、直接的に制限を加えるのは土星ではないのだと思います。何らかの物理的な制限が加わるならば、むしろ木星の働きが一枚噛んでいるのでは……と個人的には思うのですが……どうなんでしょうね。

ですから、たとえば木星土星が協働するならば、「拡張」と「制限」で単に打ち消し合うわけではなく、「何らかのこだわりがある事象を広く存在せしめる」という形で出るのだと私は思っています。

自分なりの価値判断をするということ

冒頭でも触れましたが、私は「自分の価値観を人生に反映させる」ということが人間のひとつの生きがいでもあると感じています。
木星土星は、そういう部分に深くかかわってくる天体でもあると思います。

自分なりに価値判断を行う、というのは、自由であると同時に責任も伴うことです。木星が「吉」とされるひとつの理由は、(もし自分の価値判断を木星に反映させることができれば)自分の価値判断が世間に広く受け入れられる可能性を示しうるから、という点もある気がします。しかし、木星は決してそれ単体では、自分の価値判断の正しさを保証してはくれません。その責任を自分で引き受けることができるとするならば、そこには土星が大きく寄与するはずです。土星が「凶」とされうるならば、その責任を自ら引き受けるという重圧によるものではないでしょうか。

もっというならば、「自分なりの価値判断」を確立するのは木星土星が象徴するものだけではありません。チャート上の天体・感受点のすべてが象徴するものの兼ね合いによります。しかもその中には、幼少期の経験の結果等を司る「月」に代表されるように、その人の固有の実体験によってはじめて規定される要素もあります。チャート上で漠然とした表現型まではわかっても、「なぜそうなったのか」を理解し「今後どうするのか」を考えるにはその人の実態そのものと照らし合わせる必要があります。「ホロスコープはすべての天体をみないと何もわからない」とか、「その人のこれまでの経験と照らし合わせなければ何もわからない」といわれるのには、こういうわけがあるのです。どこにどの天体があって、どういうアスペクトをとるから「吉」「凶」などと機械的に判断できるものではないわけです。

「占い」と上手く付き合えるか否かにも、自分の価値判断の砦を他人(占い師)に明け渡さずにいられるかどうかというのは大きいはずです。価値判断を他人に預けることにより降りる肩の荷もありますが、それにより失うものもあります。どこまでを預け、どこからを引き受けるのか、使い分けが必要です。自分の人生を、チャート上の木星土星を通してふり返り、こういう部分と向き合ってみるのも面白いかもしれません。

以上、木星土星を通して、「事象への思い入れ」について考えてみました。
みなさんは人生において、木星土星の象意をどのように働かせていますか?

太陽と月

ホロスコープにおける、太陽と月について考えてみたいと思います。

一般的には、太陽が外面で月が内面、太陽が仕事で月が私生活、太陽が壮年期で月が幼年期――などと対比されたりしますよね。古典的には、太陽が精神で月が肉体などとも言われてきたようです。
この2つの象徴性について、掘り下げていきましょう。

太陽と月の対比

まずは、実際の天体の性質をいくつか挙げてみます。
地球は太陽のまわりを1年かけて公転し、月は地球のまわりをほぼ1か月で公転する。
太陽は太陽系唯一の恒星、月は地球の唯一の衛星。
太陽は照らすもの、月は照らされるもの。
日食、月食は目立つ現象ですし、ドラゴンヘッド、ドラゴンテイルなんかも黄道白道の見かけ上の交点としてホロスコープで特別視されることがありますよね。

太陽と月。どちらも太陽系の中では、地球にとって特別な感じがする天体です。

この前、Podcast に新里ひろきさんと石塚隆一さんが投稿されている「心理占星術トーク」を聴いていて、太陽と月について「言い得て妙だな」と心に残った表現がありました。
いわく「幼年期、人は月として太陽から光を与えられ、成長したら、今度は自分が太陽となって他の誰かに光を与える」というような表現だったと思います。

このあたりを材料として、人生について太陽っぽさ、月っぽさを見出してみます。

人生の月っぽいところ

象徴としての月の意味合いで、内面、私生活、幼少期、肉体などと挙げてきましたが、これらを統合してみましょう。

人は誰でも、まっさらな状態で産まれ、肉体を以て物理的にこの世界に所属することになります。
パソコンになぞらえると、精神がソフトなら肉体はハード、ハードとしての最低限の機能と記憶媒体はあるけれど、まだソフトとしてワードもエクセルもパワポもインストールされていない――といった感じでしょうか。
そして産まれた瞬間から、肉体を介して怒涛の「付加情報のインストール」が始まるわけです。

月が太陽に照らされるように、乳児は成すすべもなく受動的に、あらゆる人やものに外側から働きかけられて、いろいろな情報を吸収していきます。いろいろな感覚を受け取った身体が、ニューロンに情報を記憶として刻み込んでいくわけです。
そして、月が受けた光を地球へ反射するのと同じように、乳児も自分の中で情報を反芻し、少しずつ自我を芽生えさせていきます。

三つ子の魂百まで、という言葉もあるくらいで、幼少期の経験ってとても大切ですよね。いい記憶も悪い記憶も、かなり強く本能的に印象付けられて、その後の人生の行動パターンの核になっているという実感があります。

タロットなんかでは、月は「よくわからないもの」とか「直観」などとも言われることがあるのですが、幼少期におかれた環境の中で条件づけられた行動パターンや癖なんかは、本当に「なぜだかわからないけど直観的にそう感じてしまう、そう考えてしまう」という制御しがたいところから生じている感じがしますよね。
自分の右手は、自分の右手ではつかめない」――人生のそういう側面も月の象徴なのかもしれません。

人生の太陽っぽいところ

続いて太陽の、外面、仕事、壮年期、精神などといった象徴を統合してみましょう。

人生経験を積むと、自分なりの考え方や感じ方が確立されてくるものです。
その考え方が正しいとか間違っているとか、成熟しているとか未熟だとかは置いておいて、その考え方や感じ方に基づいて自分なりに行動するようになります。
積極的に外へ繰り出す人もいれば、人間関係に対して消極的になる人もいるでしょう。
「仕事」も、自分の価値観を行動化する場として、重要なもののひとつといえます。

さて、ホロスコープでは、たびたび「星を使う」という表現が出てきます。
「太陽を使う」というと、人生における太陽っぽい部分を機能させるということになります。
バリバリ仕事している壮年期の人を見かけると、典型的に太陽っぽいなと感じるかもしれませんが、単純に「それ以外は太陽っぽくない」というわけでもありません。
たとえば、消極的だとか年若いからといっても、「太陽っぽい部分を使っていない」と単純には断言できないわけです。

太陽のポイントは、「自分なりに意図して行動する」という点にあると思います。
「自立(自分だけで行動する)」ではなくて「自律(自分をコントロールする)」という感じです。
月が「置かれた状況に適応するために必要に迫られて、コントロールしがたい本能的な行動・思考パターンを身につける」部分だとすれば、太陽は「状況を自ら作り出すために、自分で自分の行動・思考をコントロールする」部分。
いくつか挙げてきた太陽の象徴性になぞらえれば、こういう自律性は、「ある程度の年齢」を重ねて「精神」が成熟し安定したときにようやく発揮しやすくなり、自分を制御する必要のある「表向きの顔」や「仕事」においてみえやすくなる――と説明できるのではないでしょうか。

まさに太陽は「使う」天体なのだと思います。

では月はどうなのかといえば、なかなか一筋縄には「使う」ことができない気がします。右手で右手はつかめない。月がトラウマを記憶していればなおのことです。
月は「使う」というよりは「あやす」「癒す」べき天体なのかもしれません。

まとめ

一般的なホロスコープのチャートは、地球を視点として他の天体の配置を切り取る構図になります。
ここまで地球からみた太陽と月の象徴性を考えてきましたが、元をたどって考えてみると、この「視点としての地球」が意味するところって、なんなのでしょうか?

デカルトは「我思う、故に我在り」という言葉を残しています。
「自分は存在しているのか否か、そんなことを思い悩む己の考えの存在を否定することはできないのだ」――この言葉における「我」というのが、地球という視点を示すひとつの答えのようにも思います。
自分って何だ?と考える自分が確かに居る。

太陽を眺めながらそのまわりを公転する地球が、ふと、太陽に照らされる地球――「自分の自律性の源であるはずの、得体のしれない『自分』」を想起する象徴、それが地球のまわりを公転する月なのかもしれません。

みなさんが、自分の生活の中で太陽と月を感じる瞬間はいつですか?

占いというフレームワーク

胡散臭いと思いながらも、何となく気にしてしまう。
「占い」には、何かそういう不思議な魅力があるような気がします。
それは、「占い」が語る世界に、身に覚えのある価値観や考え方が垣間見えるせいかもしれません。

数年前にぼちぼち西洋占星術ホロスコープの世界を学ぶようになってから、自分の「ものの見方」が鍛えられてきました。
「自分なりの考え」を、ときに新しい言葉をつくりだしてまで理論立ててつきつめる学問を「哲学」というようですが、ホロスコープにも似たようなところを感じます。
ホロスコープには独特の文法があり、「天体」や「星座」は物事のありようを語るためのかりそめの単語として機能しています。
そうした文法や単語をどうにか駆使して、自分に見える世界を語ろうと試みるうちに、「自分なりの感じ方」をつきつめることができるのです。

その過程で、これまでたくさんの先人が感じてきた価値観や、その考え方と自分の考え方の似ているところ、似ていないところが垣間見えて、「自分」というアイデンティティが見えてくるように思います。

私が「占い」を知りたいと思うようになったのは、「自分」というものへの迷いがたくさんあったからです。
占いの中に答えや目標を見つけたくて分け入ってみたら、そこには自力で考えるための道具だけが用意されていて、半信半疑でそれをこねくり回すうちに、答えが自分の中にきちんとあることに気付いた――そんな感じです。

正直なところ、「占いで未来を予想する」というのは未だにピンとこないのですが、「占いは価値観を育ててくれる」というのは本当だと思います。
占いの文法を理解する価値観が育ってくると、現実のできごとを占いの文法で解釈できるようになり、そういう目でホロスコープのチャートをみると、なぜかドンピシャな星の配置を見つけてしまうのです。

このブログでは、ホロスコープの象徴をどう解釈するのか、また、その象徴を感じる現実の出来事をどう考え、どう対処するのか――といった「現実を解釈するための価値観を育てる」ことに重きを置いて、記事を更新していこうと思います。