お茶うけに占い

ど素人が占いの世界を覗きみる。

太陽と月

ホロスコープにおける、太陽と月について考えてみたいと思います。

一般的には、太陽が外面で月が内面、太陽が仕事で月が私生活、太陽が壮年期で月が幼年期――などと対比されたりしますよね。古典的には、太陽が精神で月が肉体などとも言われてきたようです。
この2つの象徴性について、掘り下げていきましょう。

太陽と月の対比

まずは、実際の天体の性質をいくつか挙げてみます。
地球は太陽のまわりを1年かけて公転し、月は地球のまわりをほぼ1か月で公転する。
太陽は太陽系唯一の恒星、月は地球の唯一の衛星。
太陽は照らすもの、月は照らされるもの。
日食、月食は目立つ現象ですし、ドラゴンヘッド、ドラゴンテイルなんかも黄道白道の見かけ上の交点としてホロスコープで特別視されることがありますよね。

太陽と月。どちらも太陽系の中では、地球にとって特別な感じがする天体です。

この前、Podcast に新里ひろきさんと石塚隆一さんが投稿されている「心理占星術トーク」を聴いていて、太陽と月について「言い得て妙だな」と心に残った表現がありました。
いわく「幼年期、人は月として太陽から光を与えられ、成長したら、今度は自分が太陽となって他の誰かに光を与える」というような表現だったと思います。

このあたりを材料として、人生について太陽っぽさ、月っぽさを見出してみます。

人生の月っぽいところ

象徴としての月の意味合いで、内面、私生活、幼少期、肉体などと挙げてきましたが、これらを統合してみましょう。

人は誰でも、まっさらな状態で産まれ、肉体を以て物理的にこの世界に所属することになります。
パソコンになぞらえると、精神がソフトなら肉体はハード、ハードとしての最低限の機能と記憶媒体はあるけれど、まだソフトとしてワードもエクセルもパワポもインストールされていない――といった感じでしょうか。
そして産まれた瞬間から、肉体を介して怒涛の「付加情報のインストール」が始まるわけです。

月が太陽に照らされるように、乳児は成すすべもなく受動的に、あらゆる人やものに外側から働きかけられて、いろいろな情報を吸収していきます。いろいろな感覚を受け取った身体が、ニューロンに情報を記憶として刻み込んでいくわけです。
そして、月が受けた光を地球へ反射するのと同じように、乳児も自分の中で情報を反芻し、少しずつ自我を芽生えさせていきます。

三つ子の魂百まで、という言葉もあるくらいで、幼少期の経験ってとても大切ですよね。いい記憶も悪い記憶も、かなり強く本能的に印象付けられて、その後の人生の行動パターンの核になっているという実感があります。

タロットなんかでは、月は「よくわからないもの」とか「直観」などとも言われることがあるのですが、幼少期におかれた環境の中で条件づけられた行動パターンや癖なんかは、本当に「なぜだかわからないけど直観的にそう感じてしまう、そう考えてしまう」という制御しがたいところから生じている感じがしますよね。
自分の右手は、自分の右手ではつかめない」――人生のそういう側面も月の象徴なのかもしれません。

人生の太陽っぽいところ

続いて太陽の、外面、仕事、壮年期、精神などといった象徴を統合してみましょう。

人生経験を積むと、自分なりの考え方や感じ方が確立されてくるものです。
その考え方が正しいとか間違っているとか、成熟しているとか未熟だとかは置いておいて、その考え方や感じ方に基づいて自分なりに行動するようになります。
積極的に外へ繰り出す人もいれば、人間関係に対して消極的になる人もいるでしょう。
「仕事」も、自分の価値観を行動化する場として、重要なもののひとつといえます。

さて、ホロスコープでは、たびたび「星を使う」という表現が出てきます。
「太陽を使う」というと、人生における太陽っぽい部分を機能させるということになります。
バリバリ仕事している壮年期の人を見かけると、典型的に太陽っぽいなと感じるかもしれませんが、単純に「それ以外は太陽っぽくない」というわけでもありません。
たとえば、消極的だとか年若いからといっても、「太陽っぽい部分を使っていない」と単純には断言できないわけです。

太陽のポイントは、「自分なりに意図して行動する」という点にあると思います。
「自立(自分だけで行動する)」ではなくて「自律(自分をコントロールする)」という感じです。
月が「置かれた状況に適応するために必要に迫られて、コントロールしがたい本能的な行動・思考パターンを身につける」部分だとすれば、太陽は「状況を自ら作り出すために、自分で自分の行動・思考をコントロールする」部分。
いくつか挙げてきた太陽の象徴性になぞらえれば、こういう自律性は、「ある程度の年齢」を重ねて「精神」が成熟し安定したときにようやく発揮しやすくなり、自分を制御する必要のある「表向きの顔」や「仕事」においてみえやすくなる――と説明できるのではないでしょうか。

まさに太陽は「使う」天体なのだと思います。

では月はどうなのかといえば、なかなか一筋縄には「使う」ことができない気がします。右手で右手はつかめない。月がトラウマを記憶していればなおのことです。
月は「使う」というよりは「あやす」「癒す」べき天体なのかもしれません。

まとめ

一般的なホロスコープのチャートは、地球を視点として他の天体の配置を切り取る構図になります。
ここまで地球からみた太陽と月の象徴性を考えてきましたが、元をたどって考えてみると、この「視点としての地球」が意味するところって、なんなのでしょうか?

デカルトは「我思う、故に我在り」という言葉を残しています。
「自分は存在しているのか否か、そんなことを思い悩む己の考えの存在を否定することはできないのだ」――この言葉における「我」というのが、地球という視点を示すひとつの答えのようにも思います。
自分って何だ?と考える自分が確かに居る。

太陽を眺めながらそのまわりを公転する地球が、ふと、太陽に照らされる地球――「自分の自律性の源であるはずの、得体のしれない『自分』」を想起する象徴、それが地球のまわりを公転する月なのかもしれません。

みなさんが、自分の生活の中で太陽と月を感じる瞬間はいつですか?